育休中や育休予定中に「もう辞めたい」という気持ちが生まれることは、決して珍しいことではありません。しかし、何も知らずに離職願を提出してしまうと、受け取るはずだった育児休業給付金の受給権を失う「失権」が発生するリスクがあります。
この記事では、離職願の提出が育休給付金に与える影響を法的根拠とともに徹底解説します。「失権」と「返納」の違い、ケース別のリスク判定、そして万が一提出してしまった場合の取り消し手続きまで、人事担当者・育休取得者の双方が実務で活用できる情報をお届けします。
【はじめに】育休中に「辞めたい」と思ったとき、まず確認すべきこと
| 項目 | 失権 | 返納 |
|---|---|---|
| 定義 | 将来の給付受給権そのものが消滅する | 既に受け取った給付金を返金する義務が発生 |
| 発生のきっかけ | 離職願提出や退職予定日の報告 | 受給対象外の就業状況が判明した場合 |
| 金銭影響 | 受け取れるはずだった給付金が0円に | 既受給額の全額または一部を返金 |
| 取り消し可否 | 離職願取り消しで失権回避が可能 | 手続き後の返納は回避困難 |
| 相談先 | ハローワーク・会社人事部 | ハローワーク・育休給付金支給機関 |
育児休業は、育児・介護休業法に基づく労働者の法律上の権利です。と同時に、育休期間中に支給される「育児休業給付金」は、雇用保険法(第61条の4〜第61条の10)を根拠とする非失業給付であり、在職中であることが支給の大前提となっています。
育休中に突然「辞めたい」「職場に戻る自信がない」という感情が湧いてくる背景には、育児の疲労、職場復帰への不安、パートナーとの役割分担の問題など、さまざまな事情があります。しかし、感情のままに離職願を提出してしまうと、取り返しのつかない経済的損失が生じることがあります。
「今すぐ辞める」前に必ず確認すべき3点は次のとおりです。
- 現在の育休・給付金の受給状況(いつまで育休中か、給付金はいつまで支給されるか)
- 離職願を提出した場合に「いつ」「いくら」の給付金が失われるか
- 取り消しや撤回の手続きが間に合うかどうか
以降のセクションで、これらを順番に詳しく解説していきます。
「失権」と「返納」はまったく別物|混同が招く最大のリスク
育休給付金をめぐる手続きでもっとも多い誤解が、「失権」と「返納」を同じものだと思い込んでいることです。この2つは、法的性質も発生タイミングもまったく異なります。
失権とは何か|将来の給付権が消える仕組み
失権(しっけん)とは、将来受け取るはずだった育児休業給付金の受給権が消滅することです。
雇用保険法第61条の4第1項は、育児休業給付金の支給要件として「被保険者が育児休業を取得していること」を定めています。退職(雇用関係の終了)により被保険者資格を喪失すると、この要件を満たさなくなるため、退職日以降に支給予定だった給付金は受け取ることができなくなります。
たとえば、育休を12か月取得予定で、残り4か月分の給付金(約60〜80万円相当)が支給予定だったとしても、途中で退職すれば残り4か月分は一切支給されません。これが「失権」です。
返納とは何か|いつ返金義務が発生するのか
返納(へんのう)とは、すでに受け取った育児休業給付金を、後から返還しなければならなくなることです。
原則として、適法に支給された給付金は返納の対象にはなりません。しかし次のような場合には、遡及的(そきゅうてき)な喪失が認定され、返納義務が生じることがあります。
- 育休期間中に就労実態があったにもかかわらず、給付金を受給していた場合
- 虚偽の申告により給付金を不正受給していた場合
- 給付金支給決定後に支給要件の欠如が判明した場合
退職を理由とした返納は、原則として発生しません。 退職日より前の育休期間中に支給された給付金は、正当な受給として保護されます。
失権・返納それぞれの発生条件を比較表で確認
| 項目 | 失権 | 返納 |
|---|---|---|
| 定義 | 将来の給付金受給権が消える | 既受給分の返金義務が生じる |
| タイミング | 退職日以降(将来分) | 遡及的要件欠如・不正受給 |
| 主な発生原因 | 育休中の退職・雇用関係終了 | 不正受給・事実と異なる申告 |
| 退職との関係 | 退職日以降の給付金が失権 | 退職のみでは原則発生しない |
| 法的根拠 | 雇用保険法第61条の4第1項 | 雇用保険法第10条の4 |
| 金額イメージ | 残り支給予定分(数十〜百万円超) | 不正受給分全額+加算金 |
結論:退職が問題になるのは主に「失権」です。不正がなければ返納は原則発生しません。混同しないことが重要です。
離職願を出したら育休給付金は「失権する」のか?ケース別に解説
ここが読者の皆さんが最も知りたい核心部分です。結論から言えば、「離職願を提出した」だけでは即座に失権するわけではありません。しかし、状況によってはほぼ確実に失権につながります。 ケース別に詳しく見ていきましょう。
【パターンA】育休中に退職願を提出→失権リスクが高いケース
育休中(育児休業給付金の受給期間中)に離職願を提出し、退職日が確定した場合、退職日以降の育児休業給付金受給権は失権します。
【フロー:失権リスクあり】
Step 1: 育休中に労働者が離職願を提出
↓
Step 2: 会社が離職願を「受理」→ 退職日が確定
↓
Step 3: 会社がハローワークに雇用保険被保険者資格喪失届を提出
↓
Step 4: ハローワークが退職日以降の支給要件なしを確認
↓
Step 5: 退職日以降の育児休業給付金が「失権」
↓
Step 6: 育休終了予定日までに受け取るはずだった給付金が消滅
失権する給付金の試算例:
| 条件 | 内容 |
|---|---|
| 休業開始時の賃金月額 | 30万円 |
| 給付率 | 67%(育休開始〜180日)/ 50%(181日以降) |
| 退職時点(育休7か月目) | 残り5か月分が失権 |
| 失権する給付金(概算) | 30万円 × 50% × 5か月 = 約75万円 |
上記はあくまで試算例ですが、育休期間が長いほど失権による損失額は大きくなります。
注意:「離職願の提出」≠「退職の確定」
重要なポイントとして、離職願(退職願)を提出した時点では、法的に退職が確定していないケースがあります。
- 退職願(ねがい):退職の申し出。会社が承認するまでは撤回可能(民法627条)
- 退職届(とどけ):退職の通知。原則として撤回不可
- 合意退職:会社と労働者の合意による退職。合意成立時点で確定
つまり、「退職願」を提出した段階なら、会社の承認前であれば取り消しが可能です。これについては後のセクションで詳述します。
【パターンB】育休終了後に退職願を提出→既受給分は原則保護
育休が正式に終了した後(職場復帰後)に離職願を提出する場合、すでに受け取った育休給付金は返納不要です。育休期間中の受給は適法であったため、その後退職しても遡って給付金を返す必要はありません。
【フロー:既受給分が保護されるケース】
Step 1: 育休期間(全期間)を完了
↓
Step 2: 職場復帰(または育休満了)
↓
Step 3: 育児休業給付金の支給期間終了
↓
Step 4: 通常の退職手続きを開始(離職願提出)
↓
Step 5: 育休給付金への影響なし(失権・返納ともに発生しない)
ただし注意が必要なケースがあります:
- 育休終了直後に退職する場合でも、退職日が育休終了日より後であれば問題ありません
- しかし、会社によっては「育休後に職場復帰しないと給付金を返還させる」という就業規則を設けているケースがあります。これは雇用保険法上の返納義務とは別の会社独自の取り決めです。就業規則を事前に確認することを強くお勧めします
【パターンC】育休開始前(申請後)に退職願を提出→育休自体が認められないリスク
育児休業の申し出をした後、育休開始前に退職願を提出した場合はどうなるでしょうか。
この場合、退職日が育休開始予定日より前であれば、育児休業自体が始まらないため、給付金の受給権も発生しません。 また、育休開始予定日以降に退職日を設定した場合でも、退職の意思を示した時点で育休の取得要件(雇用継続の見込み)を欠くとみなされ、申請が却下される可能性があります。
離職願を取り消したい場合の手続き|期限・方法・注意点
「勢いで退職願を出してしまったが、やっぱり撤回したい」というケースは現実に起こります。以下に、取り消しの可能性と手続きを整理します。
退職願の取り消しが「できる」タイミング
【取り消し可能な状況】
退職願を提出
↓
← ここまでなら取り消し可能(会社未承認)
会社が退職願を承認(受理)
↓
退職日の確定
↓
← ここ以降は原則として取り消し不可
民法627条第1項は、期間の定めのない雇用契約については、退職申し出から2週間後に雇用関係が終了すると定めています。しかし、退職「願」は会社への申し出に過ぎず、会社が承認する前であれば取り消し(撤回)が可能です。
最高裁判所の判例(昭和62年9月18日)でも、「退職の申し出は、事業主がこれを承認するまでは撤回することができる」という原則が示されています。
取り消し手続きのステップ
Step 1:即座に取り消しの意思を上長・人事部門に伝える
口頭で伝えると同時に、必ず書面(退職願取消届)で意思表示をしてください。口頭のみでは後々のトラブルに発展する可能性があります。
退職願取消届(例文)
退職願取消届
私儀、〇年〇月〇日に提出しました退職願について、
都合により取り消しをお願い申し上げます。
引き続き勤務する意思がありますので、何卒ご承認くださいますようお願い申し上げます。
〇年〇月〇日
所属:〇〇部
氏名:〇〇 〇〇 印
Step 2:ハローワークへの報告が行われていないか確認する
会社が既にハローワークへ「雇用保険被保険者資格喪失届」を提出していた場合は、会社を通じて取り消し(喪失届の撤回)を申請することが必要です。ハローワークへの喪失届は、誤って提出した場合には訂正・取り消しが可能ですが、早期に動くことが重要です。
Step 3:育休給付金の支給申請に影響が出ていないか確認する
ハローワークの管轄する公共職業安定所に問い合わせ、育休給付金の支給申請に問題が生じていないかを確認します。必要に応じて「育児休業給付金支給申請書の訂正・補完」を行います。
会社が取り消しを拒否した場合
会社が退職願の撤回を拒否するケースもあります。特に育休中の労働者が退職意思を示すと、会社側が「了承した」として処理を進めてしまう場合があります。
このような場合は、以下の機関への相談をご検討ください。
| 相談窓口 | 対応内容 | 連絡先 |
|---|---|---|
| 都道府県労働局 雇用環境・均等部(室) | 育児・介護休業法に関する相談 | 各都道府県の労働局 |
| 労働基準監督署 | 不当な退職強要の相談 | 各都道府県の労基署 |
| 総合労働相談コーナー | 労働問題全般の相談 | 各都道府県の労働局内 |
| ハローワーク | 雇用保険給付の相談 | 最寄りのハローワーク |
企業の人事担当者が知っておくべき対応手順
育休取得予定者・育休中の社員から突然離職願が提出された場合、人事担当者の対応が労働者の給付金受給に直結します。 以下の手順に従って慎重に対処してください。
人事担当者の対応フロー
Step 1:即座に受理保留の扱いとする
育休中の社員からの離職願は、原則として「受理保留」扱いにし、即日受理しないことを強くお勧めします。育休中の退職意思は、精神的なストレスや一時的な感情から生じていることが多く、後から撤回を求めるケースが多いためです。
Step 2:本人との面談を実施する
面談の目的は退職を思いとどまらせることではなく、「本人が現状と影響を正確に理解した上で意思決定しているか」を確認することです。具体的には以下の点を説明してください。
- 退職した場合に失権する育休給付金の試算額
- 育休終了後の復職・退職の選択肢
- 育休中退職の場合の社会保険の扱い(健康保険の任意継続など)
Step 3:ハローワークへの届出は退職確定後に行う
離職願が提出されただけの状態で、ハローワークに「雇用保険被保険者資格喪失届」を提出してはいけません。退職が正式に確定(退職届の受理または退職日の到来)してから手続きを行います。
Step 4:育休給付金の支給申請状況を確認する
退職が確定した場合、退職日以降の育休給付金の申請は行えません。すでに申請済みの期間分については、ハローワークに支給申請の訂正・取り下げが必要になる場合があります。
人事担当者が確認すべき必要書類一覧
| 書類名 | 用途 | 提出先 |
|---|---|---|
| 退職願(または退職届) | 退職意思の確認・保管 | 社内保管 |
| 育児休業申出書(原本) | 育休申出の記録確認 | 社内保管 |
| 雇用保険被保険者資格喪失届 | 退職確定後に提出 | ハローワーク |
| 離職票(1号・2号) | 離職後の失業給付等のため | ハローワーク経由で本人へ |
| 育児休業給付金支給申請書(訂正分) | 退職日以降の申請取り消し | ハローワーク |
育休給付金の計算方法|失権すると「いくら」損するのか
失権のリスクを具体的に理解するために、育児休業給付金の計算方法と、失権した場合の損失額を確認しましょう。
給付金の計算式
育休開始〜180日(約6か月)まで:
給付金 = 休業開始時賃金日額 × 支給日数 × 67%
181日以降〜育休終了まで:
給付金 = 休業開始時賃金日額 × 支給日数 × 50%
失権した場合の損失額シミュレーション
| ケース | 月給 | 退職タイミング | 残り期間 | 失権する給付金(概算) |
|---|---|---|---|---|
| ケース1 | 25万円 | 育休4か月目 | 8か月分 | 約100万円 |
| ケース2 | 30万円 | 育休7か月目 | 5か月分 | 約75万円 |
| ケース3 | 35万円 | 育休10か月目 | 2か月分 | 約35万円 |
| ケース4 | 40万円 | 育休2か月目 | 10か月分 | 約185万円 |
※上記は概算値です。実際の給付金額は休業開始時賃金日額の計算方法(直近6か月の賃金総額÷180日)により異なります。また、社会保険料の免除が終了することによる手取り額への影響も考慮してください。
育休中退職で「追加的に失うもの」
育休給付金の失権だけでなく、育休中退職では以下の経済的メリットも失われます。
- 社会保険料の免除:健康保険・厚生年金の保険料が、育休期間中は免除されます。退職後は自費で国民健康保険・国民年金に加入する必要があります。
- 退職金の減額:勤続年数が短くなることで、退職金算定に影響が生じる可能性があります。
- 賞与への影響:育休中の賞与は会社の規定によりますが、復職前提で支給されるケースもあります。
まとめ|育休中の離職願提出で知っておくべき5つのポイント
この記事で解説してきた内容を、最後に5つのポイントに整理します。
-
「離職願の提出」だけでは即座に失権しない。会社の承認前なら撤回が可能。
-
「失権」は退職日以降の将来の給付金が消える話。「返納」は不正受給時の話。混同しないことが重要。
-
育休中に退職が確定すると、残り育休期間の給付金(数十万〜百万円超)が失権する。
-
育休終了後の退職は、既受給の育休給付金に影響しない(会社独自の就業規則を除く)。
-
育休中に離職願を受け取った人事担当者は、即日受理せず「受理保留」とし、本人に影響を説明してから判断を促すべき。
「辞めたい」という気持ちは大切にしつつ、決断は給付金の影響を理解した上で行うことが重要です。迷っている方は、まず最寄りのハローワークや労働局に相談することをお勧めします。
よくある質問(FAQ)
Q1. 育休中に退職を口頭で伝えただけでも失権しますか?
A. 口頭での申し出だけでは、法的に退職は確定していません。会社が承認するまでは撤回可能です。ただし、口頭での意思表示でも会社が「承認した」と判断するリスクがありますので、すぐに書面で「撤回」の意思を伝えることを強くお勧めします。
Q2. 育休給付金をすでに何か月分か受け取っています。退職したら全額返さなければなりませんか?
A. いいえ、原則として返納は必要ありません。適法に受給した育休給付金は、退職後も返還義務は生じません。ただし、退職日以降の未受給分は失権(受け取れなくなる)します。不正受給や虚偽申告がある場合は別途返納義務が生じます。
Q3. 離職願を取り消したいが、会社が応じてくれません。どうすればいいですか?
A. 会社が不当に退職願の撤回を拒否している場合は、都道府県労働局の「総合労働相談コーナー」または「雇用環境・均等部(室)」に相談してください。育児休業中の不利益取り扱い(育介法第10条違反)に該当する可能性もあります。
Q4. 育休終了後すぐに退職する場合、育休給付金は全額受け取れますか?
A. 育休終了日(育休最終日)以前に退職日が設定されていなければ、育休期間中の給付金は全額受給できます。ただし、会社の就業規則に「育休後一定期間勤務しなければ給付金相当額を返還させる」という規定がある場合は、別途確認が必要です。この場合の返還義務は会社との契約に基づくものであり、雇用保険法上の返納とは異なります。
Q5. 育休中に精神的につらくなって「退職したい」と思ったとき、誰に相談すればいいですか?
A. まず職場の産業医や人事担当者に相談することをお勧めします。法的な権利・給付金の影響については、ハローワークや労働局の「総合労働相談コーナー」(無料)で相談できます。また、産後うつや育児不安については、市区町村の子育て支援窓口・保健センターへの相談も有効です。一人で抱え込まず、まず話してみることが大切です。
本記事は、育児・介護休業法、雇用保険法に基づく一般的な制度解説を目的としており、個別の法律相談ではありません。具体的なご状況については、社会保険労務士・ハローワーク・都道府県労働局にご相談ください。
最終更新:2025年6月(法令は2025年4月1日現在)

